はぎの通信 No.67(物が見えるということ)
はぎの通信 No.67 (R6. 3.25)
中越高等学校長 萩野 俊哉(はぎの・しゅんや)
物が見えるということ(Being able to see things)
3月22日(金)の終業式で私がお話をしたことを、約束通り以下に記します。
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本日終業式。令和5年度終了。大変お疲れさまでした。
今日は少しメモを見ながらお話をします。
唐突ですが、皆さんに質問です。
「物は見えるからあるのでしょうか、それとも、あるから見えるのでしょうか?」
なんて馬鹿な質問をするのだ、校長は!と思った人も多いと思います。そう、そう思った人たちは、きっと、物はそこになければ見ることなんてできない、当然、物はそこにあるから見えるのだ、と即答するでしょう。
でも、こんなふうには考えられませんか?
あるから見えるんだということ自体、見えるからこそ「ある」、と言っていることになるのではないでしょうか。つまり、しっかりと物を見れてそれと認識することができるからこそ、その物が、その対象物が、そこに「ある」と言えるのではないでしょうか。その人にとってその物が見えていなければ、その人にとってはその物はそこに「ある」とは言えない、つまり、存在しないものになるのではないでしょうか。
実は、この話はちょっとした哲学の話なのです。今言った前者の「物はそこにあるから見えるのだ」という立場を「実在主義(Existentialism)」と呼び、後者の「物は見えるからそこにある」とする立場を「観念主義(Idealism)」と呼びます。
私が何が言いたいかというと、物事をしっかりと見て取れる人は、多くの物事や考えの存在を知ることができる、ということです。それは皆さんのこれからの人生にとって、とても大切なことです。
それでは、「物事をしっかりと見て取れる」ようになるためにはどうしたらよいでしょうか?答えは簡単。「勉強すること」です。そして、「経験・体験すること」です。「勉強」と「経験」、この2つのキーワードで、自分の今年度を振り返ってみてください。そして、その「勉強」と「経験」のキーワードをもとにして、4月からの新年度を自分はどのように過ごしていくのかを考えてみてください。
今日はちょっと難しい話だったでしょうか?話の内容は、後で本校ホームページの「校長ブログ」にアップしておきますので、それをよく読んでみてください。
さて、最後に私から皆さんへのいつものエールです。
越高生の皆さん、いつも明るく、元気で、爽やかで、思いやりのある越高生でいましょう。時代がどのような時代であっても、私たちは「若き今日 眉上げん」です。頑張りましょう! … 以上です。
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来週からは新年度(令和6年度)が始まります。学校にとっては、新しい年の始まりです。気持ちも新たに、どうぞよろしくお願いいたします。
以上