はぎの通信 No.85(出口の見つからない魂たちに)
はぎの通信 No. 85 (R6. 7.22)
中越高等学校長 萩野 俊哉(はぎの・しゅんや)
出口の見つからない魂たちに(For the “gemstones”)
学生時代に、感じたこと、考えたことや知りたいことを乱雑に書きなぐっていた雑記帳を久しぶりに開いてみました。その大方は、稚拙でひ弱で未熟な甘っちょろい内容なのですが、また同時にそこには現在までに失ってしまった新鮮な感受性があって、思わず昔の自分に微笑んでしまったりもしました。
大学時代に綴ったあるページには私はこんなことを書いていました。
「社会の荒波を大学という温暖な孤島から眺めているだけの我々にとって、空虚とか苦悩がどれだけのことを意味するものか。その中で、懸命に土を掘ることも狩りをすることもない我々の感じ得る痛みとは、ただ木の実が上から頭に落ちてきた時のそれに過ぎないのではないか。我々の歩き回っている世界は限りなく小さい。そして、そこで味わう悲哀や苦しみも甚だしく小さいものと言わねばならない。涙が枯れるまでの悲しみ、人間の醜い生態を目の当たりにしたときの空しさ、骨が溶けてしまうような苦しみ、そんなものに比べたら、我々の悩みなどなんと取るに足らぬものであることか!『空しい』『つらい』などという言葉を使うことを、若者の特権であるかのように誇大に美化するのはよそう。」
その頃の私は、寂寞とした日々を送っていました。人と上手く交わることができずに、孤独感にさいなまれ、何をする気も湧かない自堕落な生活を送っていました。その頃書いたものには、自分を形容して、「妥協の醜さ」「自己欺瞞」「寛容心の欠如」「卑怯」といった言葉が目立ちます。そんなもやもやを払拭し、自分をわざと奮い立たせるために書いたのが、上の一節であったように記憶しています。事態はそんなにたやすく変わることはありませんでしたが、これを書いたことで随分と気分が楽になったことを思い出します。
若い心は傷つきやすく脆いものです。ちょっとしたことで落ち込んだり意欲を失ってしまうことがよくあります。必要以上に自意識が強くなり、人の目が気になり、一挙手一投足がぎこちなくなり、その結果自分の殻に閉じこもってしまいます。一旦それに引きこもると、それを打ち砕くのは容易ではありません。ますます閉塞感や孤独感がつのり、意識が混乱してしまいます。
そのような心は出口を求めています。人に言うことができればそれでいい。しかし、いかに親しい人にでも、それはつらいことです。そんな時は、思いのすべてをノートに書きなぐるとよいと思います。それも、自分の中の素晴らしい部分を見つめながら書くのです。自分が世界で一番えらいと思って書く。誰に見せるためでもない。自分の分身をノートに刻み付けるような気持ちで書きなぐるのです。
それは、後になって読み返してみたとき、自分の醜さではなく純粋さを発見させてくれます。対人関係で悩み、空虚感にやるせない思いをしたことが、決して無駄ではなく、何らかの形で自分の人格の大切な部分を形成していることに気付くことができます。作詞家である阿木耀子氏は次のように言っています。「長い間自分を閉ざしてきたことも、マイナスばかりじゃなかったんだと思えるんです。厚い殻の中で自分を守りながら、何かをゆっくり育ててきたのかもしれない。長いこと蓄積してきた願いが、いつか宝石に変わるように。」
今日の一言
すべての山に登りなさい 道を探りながら
どんな脇道も試してごらん
すべての山に登りなさい
谷川を渡って 虹を追っていけば
夢はきっと見つかる
(ミュージカル The Sound of Musicより)
以上