はぎの通信 No.100(プライオリティー(優先権)の問題)
はぎの通信 No. 100 (R6. 12.2)
中越高等学校長 萩野 俊哉(はぎの・しゅんや)
プライオリティー(優先権)の問題 (Do you appreciate the “priority”?)
いよいよこの「はぎの通信」もNo. 100(第100号)となりました。我ながらよく続いていると思います。いつも読んでいただいている方、ありがとうございます。今後とも引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
さて、今日は表題にある通り、プライオリティ(priority)に関するお話です。
その時々に選択の幅がひとつしかなく、迷いなく一本道を進んでいけたらどんなにか楽なことだろうと思ったことはありませんか。あるいは、自分のすることが、コンピュータに組み込まれた予定表に沿って、その時その時で自動的に決められたらどんなにいいことだろうと思ったことはありませんか。しかし、私たちはみな生身の人間です。体はひとつしかありません。いくつかの選択肢の中から、迷った挙句、ひとつだけを取り、後は切り捨てたり後回しにしなくてはならないことがたくさんあります。
例えば、次の休みに友達があなたを遊びに行こうと誘ったとします。あなたは何も予定はないので承諾します。しかし、その後で予定にはなかった部活の練習試合が入ってきたとします。さて、あなたはどちらを取るでしょうか。友達と遊びに行きたい。せっかく約束をしたのだから、それを断るのは悪い気もする。だが、レギュラーになれたばかりの部活で、練習試合を休むのも痛い。自分がいないと部員も迷惑するに違いない。あなたは、大いに悩み、結局その友達には詫びて、部活の練習試合に行くことにします。友達と遊びに行けなかったことは、かえすがえすも残念で、「なぜ同じ日に...」と恨めしい気持ちで試合会場へ向かいながら...
さて、皆さんの目の前に2つ、どうしてもやらなければならないことがあるとします。どちらからやろうか。おそらくあなたは、2つの難しさや締め切りなどを考慮して、より緊急で時間のかかりそうな方から取りかかるでしょう。
このように、私たちの生活では、2つ以上の重要なことが同時に自分を要求することがしばしばあります。そうなった場合は、そのどちらかから自分にとってより重要な方を選ばなくてはなりません。このようにどちらかを優先させることをプライオリティー(priority)と言います。
プライオリティーをどちらに置くかが明白な場合はまだいいでしょう。しかし、上で述べた例のような、どちらにもプライオリティーを置きたいという場合は、日頃から自分が大切にしているもの、価値を見いだしているものが、それを決める要因となります。すなわち、最終的にどちらを選ぶかは、その人個人の生き方の問題に関わるのです。大切にすべきものがありながら、それをおざなりにしていると、プライオリティーはどんどんレベルが低くなり、よく考えもせず、その場の衝動や本能だけで行動してしまうようになっていきます。そうなると、もはや何が大切なことなのかすらわからなくなってしまうことにもなりかねません。大切なことが見えなくなってしまったなら、もはやプライオリティーなど用のない人生になってしまうでしょう。
よりよく生きようとするからプライオリティーを何に置くべきか迷うのです。そして、自分の信念が確固としたものになればなるほど、自分が最も優先すべきものがはっきりと見えてきます。切り捨てることで負わなければならない損失もあるでしょう。だが、同様に重要なものでも、後で取り返せるものもあります。こういったことを、的確にその都度判断できるようになることが、私たちの行き方を決めていくのだと思います。
人生は選択肢が常にひとつといったつまらないものではなく、また、それこそAIによって決められるようなものでもありません。迷いばかりがつきまとう。しかし、その迷いがあるからこそ、人生は楽しいのだと思います。
今日の一言
自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。
どちらも弱いものには耐えることができない。
(芥川 龍之介『侏儒の言葉』)
以上